緒言>日本漢方の腹診症例をみると、実証で圧痛はあるが、虚証の時に喜按が見当たらない。むしろ虚証でも圧痛がある。大塚敬節は、「虚寒腹痛で圧痛がある症例」の解説で次のように述べている。「『腹満があってこれを按じて痛むものは実であり、痛まない者は虚である』の金匱の条文は無条件で参考にしてはならない」1)(表1の症例6-1の解説)。中医学では実なら拒按、虚なら喜按である。この圧痛、拒按、喜按に関して認識の差異を文献的に、統計的に考察した。なお腹診症例は大塚氏の『漢方診療三十年』1)の症例を用いた。症例番号もそれに準じた。
結果>
1)腹痛と喜按
臨床中医内科では腹痛の弁証として寒痛、熱痛、虚痛(虚寒腹痛)、気滞痛、瘀血痛、食積痛がある。その中で喜按の症状は虚寒腹痛にのみ見られた。虚寒腹痛では「喜按、按じると痛み減る。処方は小建中湯加減」とある2)。
結果1:腹痛で喜按があるのは虚寒腹痛のみである。
2)虚寒腹痛と圧痛
大塚氏の症例から、小建中湯加減処方、「桂枝加芍薬湯、小建中湯、黄耆建中湯、当帰建中湯、桂枝加附子湯、当帰四逆湯」を使用し、腹痛があり且つ腹診所見の記載のある症例、いわば虚寒腹痛症例を表1に示す。
結果2:表1より虚寒腹痛の10症例においては、圧痛あり7、圧痛なし3で「喜按」の記載はなかった。圧痛場所は、腹部全体、胆嚢部、下腹部の一部および臍周囲である。
表1 小建中湯加減使用例(虚寒腹痛例) 番号は圧痛あり
症例 |
主症状 |
腹診所見 |
処方 |
6-1腹痛、便秘
心下痞(痛) |
腹痛、便秘
腹脹;43才、女 |
腹部膨満感、どこを圧しても痛む |
桂枝加芍薬湯 |
13
慢性腹膜炎の少女 |
8女、慢性腹膜炎。2月前より元気ない、疲れ、軽い腹痛、便が7~10でない、食欲減少 |
腹部少し膨満して抵抗、臍周囲に圧痛 |
小建中湯 |
16-2胃癌末期心下痛 |
60男、痩せて血色よくない、激しい胃痛と嘔吐。胃癌末期。(胃潰瘍疑い)吐物には血まじる、 |
腹壁全体が板のように硬い |
小建中湯で治癒 |
18腸重積手術後の腸ねん転、 |
3歳、3月前から発作性に腹痛、嘔吐。毎日続き、時に下痢。徐々に衰弱する。顔色悪い |
腹部は一体に膨満、腹痛部位は一定せず上下左右に動く。圧痛はない。 |
小建中湯で症状は改善したが死亡した |
24結核性腹膜炎 |
50、女、40日前から38.39度の熱、1月前より腹膜炎、食欲なく衰弱、 |
腹部は全般に抵抗圧痛、膨満感ある。脈細弦、やや数 |
黄耆建中湯 |
27頑固な大腸炎 |
27女、1年前から大腸炎繰り返す。下痢で渋り腹、粘液と血が出る。不爽快。月経1年ない |
腹直筋拘攣、左腸骨窩に索状の抵抗圧痛 |
当帰建中湯 |
28掻破後の腹膜炎 |
32女、掻破後腹膜炎、血塊、帯下、右下腹痛、寒いと酷い、右腰から下肢が冷える、頭重疲れ |
腹部は膨満、圧重感、右下腹部は圧痛、重苦しい |
当帰建中湯 |
40冬に腹痛 |
57男、胃潰瘍の手術後下腹がひきつり、疲れると下痢、冬になると下腹部痛、夜に激しく不眠 |
腹直筋攣急、臍上で振水音、腹部は軟弱、按圧するとグル音 |
桂枝加附子湯 |
41発作的に上腹部に痛 |
43男、発作的に上腹部に痛み胆石といわれる。みぞおちが時々痛み、元気ない、盗汗あり |
腹部軟弱でみぞおちには全く抵抗触れない、胆嚢部に強圧して微圧痛 |
桂枝加附子湯 |
49子宮脱 |
色白い女、下腹部の膨満と腹痛が主訴。脈は沈小、便1/日、冷え症、冷えると症状増悪、 |
下腹部かるく膨満、臍右から右鼠蹊部に引きつる痛みと圧痛、腰痛、 |
当帰四逆湯 |
3)大塚氏の腹診症例の虚実と圧痛
大塚氏の腹診所見の記載ある217全症例から圧痛と虚実の関係を調べて表2に示す。虚実の判定は使用された方剤、症状から判別した。例えば症例170では、腹部圧痛あるが、真武湯は陽虚水泛であるから虚実挟雑とし、症例320では、六君子湯は脾虚痰湿の方剤なので虚実挟雑と分類した。表2を集計して表3に示し有意差検定を行った。また表4においては実証と虚実挟雑をまとめ、虚証と比較検討して感度、特異度を計算した。表3では「虚証で圧痛」が8例あり、その詳細を表5に示した。(6-1~49までは表1の圧痛症例と同じ)
結果3:表3において「実証と虚証」および「実証+虚実挟雑と虚証」についてχ2乗検定すると、共に有意差あり。χ2値11.50とχ2値4.20(χ2(0.95)=3.84)つまり、圧痛所見は実邪を見つけるのに有意である。
結果4:表4より、実邪を見分ける手段としての腹部圧痛所見は、「感度が低く、特異度が高い。」ここでの感度とは実邪を見分ける確率であり、特異度とは圧痛があった場合それが実邪を持つ(実証または虚実夾雑証である)確率である。
結果5:腹診症例217全症例中、8例のみが「虚証で圧痛」あり、その内7例は虚寒腹痛であった。
表2 「漢方診療三十年」から腹診記載のある217症例の分析
|
圧痛 |
圧痛なし |
実証 |
60、86、89、90、94、95、97、235、242、250、253、254、255-1、255-2、256、257、259、260、329、338、340、359、361、372、373 |
68、69、74、81、82、83、84、85、87、88、92、98、114、115、118、142、143、145、236、238、240、243、249、262、263、264、265、321、337、339、342、350、351 |
虚実
挟雑 |
6-2、14、79、109、116、139、151、170、171、176、219、229、234、299、334、335、336、352、356、358 |
1、11、12、37、48、70、73、75、76、77、78、91、93、96、100、102、103、104、105、106、107、111、113、121、122、125、128、130、131、132、133、134、136-1、136-2、137、140、152、153、155、159、160、165、168、169、172、175、190、199、200、201、206、207、208、211、220、221、222、223、224、225、226、227、228、230、244-1、245、246、247、269、300、301、309、312、313、314、316、319、320、324、331、344、354、368 |
虚証 |
6-1、13、24、27、28、41、49、282 |
8、16-2、18、20、31、32、40、44、45、52、75、178、179、180、182、184、185、186、188、189、192、193、195、198、214、215、216、217、218、233、273、275、278、279、280、281、284、289-2、296、298、304、311、315、325、326、327、328、347 |
表3 表2の集計表
|
圧痛あり |
圧痛なし |
計 |
実証 |
25 |
33 |
58 |
虚実挟雑 |
20 |
83 |
103 |
虚証 |
8 |
48 |
56 |
計 |
53 |
164 |
217 |
表4 圧痛の感度、特異度
|
圧痛あり |
圧痛なし |
|
実証+虚実挟雑 |
45 |
116 |
45/161 感度27.6% |
虚証 |
8 |
48 |
48/56 特異度85.7% |
計 |
53 |
164 |
217 |
表5 虚証で圧痛ある症例
6-1腹痛、便秘 |
桂枝加芍薬湯 |
13慢性腹膜炎の少女 |
小建中湯 |
24結核性腹膜炎 |
黄耆建中湯 |
27頑固な大腸炎 |
当帰建中湯 |
28掻破後の腹膜炎 |
当帰建中湯 |
41発作的に上腹部に痛 |
桂枝加附子湯 |
49子宮脱 |
当帰四逆湯 |
282脳出血による歩行困難>71歳婦人。軽い脳出血後から右足の運びが悪い、時に転倒。小便が快通しない。食事多いと腹脹して尿不利 |
八味丸(右の下腹部に圧痛)
腹診は「左右の腹直筋が拘攣して、事に右の下腹部に圧痛」口渇、脈弦有力。血圧200 |
4)中国と日本の腹診所見の差異
日本式腹診と圧痛>腹診方法は、大塚敬節によれば、「胸から腹を軽くなでおろし(軽手)、この時に腹壁の厚薄、動悸等を診し、次に個々の腹診にとりかかる(中手、重手)。」3)圧痛については、「『腹満があってこれを案じて痛むものは実であり、痛まない者は虚である』の金匱の条文は無条件で参考にしてはならない」という1)。虚寒腹痛で圧痛があったように、小川氏も、小建中湯の腹症は「下腹を正按して痛みある者とういうのが正解である」とする4)。江戸時代にも「この辺(中脘)を按じて痛むが、中焦の虚なり」とする考え方もあった5)。
結果6:日本式腹診では、虚証であっても圧痛所見がある。
中国式腹診と揉按>中国では中按で病変部位を確定した後、更に進めて揉按の反応をみて病変の虚実を決める6)。揉按の方法は「手指または手掌で身体のある部位をもむ方法。指と掌を皮膚にぴったりくっつけて移動しないようにし、皮下組織が指または掌で揉むことによって動くようにする」7)これは中医物理療法の一つでもある。それ故、「按じると癒ゆ(金匱要略)」8)という事もできる。中国の腹診は愈根初が「通俗傷寒論」で総括したといわれるが9)、ただ彼以後、腹診は廃れていく。喜按と言い出したのも彼が最初の様だ。それ以前では、「按じて痛み止む(素問)」10)、「按じても痛まない(金匱)」11)「重按できる(朱丹渓)」12)「按じることができる(張介賓)」13)のが虚証の表現であった。一方実証なら当然、拒按である。9)
結果7:中国式では中按で病変部位を確定した後、揉按して病変の虚実を決める。
7)症例再検討
圧痛と拒按が同義でないので、以前報告14)した「喜按、拒按の記載のあった14例(拒按9例、喜按5例 )」の検討症例を再検討是正して表6に示した。表中のA)の症例15)では、胃気虚寒(十二指腸潰瘍)で、「痞悶圧痛ありて内服軽快。6日で薬止めると再発して痞悶して喜按であった」という。「圧痛で喜按」の症例と言えよう。処方は党参15白朮15乾姜9炙甘草12桂枝12。
結果8:「虚証でも圧痛で喜按」の症例もある。
表6「喜按、拒按の記載のあった14例(拒按9例、喜按5例 )」の検討症例を再検討是正
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虚証 |
実証 |
虚実挟雑証 |
圧痛 |
A)15)胃虚気寒(十二潰)
>圧痛で喜按 |
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脾陽虚胃陰虚瘀血(胃炎)
脾気虚肝火犯胃(胃炎) |
拒按 |
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瘀血入絡、瘀久生毒(胃炎)
瘀濁瘀血阻胃絡(胃潰瘍)
瘀血内結中焦 (胃潰瘍) |
中虚気滞(胃炎)
寒熱錯綜、中焦痞阻(胃炎)
久痛入絡、寒熱錯綜 (十二潰) |
喜按 |
気血両虚陰傷(胃炎)
脾腎陽虚 (急性胃炎)
中焦虚寒脾胃失和(十二潰)
中焦虚寒(胃潰瘍) |
|
中虚気滞(胃炎) |
考察>漢方診療三十年の腹診全症例217例から、圧痛所見を検討すると、実証では圧痛が多く、虚証と比較して有意差があった。実邪を見分ける手段としての腹部圧痛所見の感度は27.6%、特異度は85.7%であった。つまり腹部圧痛所見は実証又は虚実夾雑証を有意に示唆するが、実邪を見分けるには感度が低いという認識が必要である。一方217例中、虚証で圧痛が8例あり、その全てに喜按の記載はない。厳密に言えば、揉按をしていないので拒按か喜按か不明である。中医学では、「中按(中手)で病変部位を確定した後、揉按して病変の虚実を決める。6)実際には、指と掌を皮膚にくっつけて移動しないようにし、皮下組織が指または掌で揉んで動かす。」7)こうして拒按、喜按を判別する。中按して圧痛があっても症例A14)のように喜按になる事もある。筆者は揉按を腹診に取り入れるようにしてから「圧痛で喜按」の症例を時々見かける。揉按は、治療の一環にもなるので「按じれば痛み止む」10)「按じれば癒ゆ」8)という事もある。これらは素問、金匱要略にある事に注目すべきである。圧痛あれば実邪を示唆するのになぜ喜按になるのか。これについて解説した書はまだ見かけない。そこで小建中湯証を例に考えてみる。結果5で示したように日本漢方では虚証でも、圧痛ありとする。小川氏も「小建中湯の腹症は・・下腹を正按して痛みある者とういうのが正解である」4)とする。本草備要の芍薬16)(小建中湯の主薬)の項では、「脾虚腹痛では営気が順行せず、肉に営気が溜る。」「芍薬は漏れでた営気を血管に戻す」事により痛みをとると解説する。それで筆者は「小建中湯の証は虚寒腹痛であるが、病機的(営気が溜る)には邪の要素もある。それゆえ圧痛あるが、本は脾虚であるので喜按」と考える。圧痛がある場合、大塚は虚の弁別には「虚証の者は腹が張っていても、弾力や底力が乏しく、脈に力がない。」1)としている。それも参考になるが通常の腹診に揉按法を組合せればより精度が高まるといえよう。
参考文献
1)大塚敬節:漢方診療三十年、p78~79、創元社、大阪市、1993年
2)王永炎:臨床中医内科、p844~p855、北京出版社、北京、1993年
3)大塚敬節:漢方医学、p101、創元社、大阪市、1994年
4)小川新:古今腹症新覧Ⅱ、p166、たにぐち書店、東京、2010年
5)丹波元堅:診病奇侅、p16、和漢医学社、東京、1996年
6)王琦:中医腹診研究与臨床、p76、中国中医薬出版社、北京、2012年
7)推拿学、p20、上海中医薬大学付属日本関西、大阪、2004年
8)日本漢方協会学術部:傷寒雑病論、p222、東洋学術出版社、千葉県市川市、1993年
9)兪根初:三訂通俗傷寒論:p149~p152、中医古籍出版社、北京市、2002年
10)尚志鈞:中医八代経典全注、素問「挙痛論」、p32~p33、貨夏出版社、北京、1944
11)日本漢方協会学術部:傷寒雑病論、p213、東洋学術出版社、千葉県市川市、1993年
12)丹波元堅:雑病広要、p1103、中医古籍出版社、北京、2002年
13)張介賓:景岳全書、p288、山西科学技術出版社、太原市、2006年
14)川又正之:胃脘痛の弁証要点についての検証、中医臨床132号、p60~65、2013年
15)刘晓伟:「胃腸病」名家医案・妙法解析、p59、人民軍医出版社、北京、2007年
16)汪昂:本草備要、p51、人民衛生出版社、北京、2006年
追記>平成25年に発表した「胃脘痛の弁証要点についての検証」と「心下痞・心下痞梗の解釈」をそれぞれ脾胃の研究Ⅰ、Ⅱとして、今回をⅢとして、以後もしばらく発表続ける予定です。
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