5)狭義の心下と膜原
狭義の心下は「胃と心の間」であり、膜原に近接している。膜原(狭義)は「胸膜と膈膜の間」12)にあり、「三焦の門戸」13)である。三焦とは「水と気の通路として重要な所で、脾胃の気が昇降するほか、心肺の気下降、肝腎の気が上昇する場である。」14) つまり脾胃升降失調からくる痞、痞硬が心下にできるのは、三焦の気機失調が膜原を通じて、腹部表面の心下に反映するからと推定できる。また、この膜原は、口鼻から入った外邪(湿温)がやがて詰まる所であり14)、寒邪が肌表を通じて侵入してくる所15)でもある。一方、傷寒論では心下は、熱邪と痰飲が結びついて結胸を起こす場16)であり、また伏邪(支飲)が慢性的に潜伏して「心下有水気」17)となる所である。つまり外邪が裏の膜原に入り停滞すると、腹診上、心下に見て取れることを示している。ここで自験例を提示する。(漢方では外感病にふつう腹診をしないので症例が少ないため)
症例1>37歳女性、昨日より発熱、本日は38.5度、悪寒少し、側頭部に頭痛と頭重感、咳少、痰少で透明、咽痛なし、口干少飲、冷飲好。食欲なく悪心、空腹感あるが食べられない。心下に痞硬痛、インフルエンザA型。脈沈細軟稍数92/分、舌淡紅、胖やや歯根、薄白苔。湿温邪気の膜原入裏として柴胡達原飲加減処方。2日目に解熱、3日で回復して痞硬もなくなる。この処方は、膜原に痰湿が詰まった者を治す処方である。つまり外邪(湿温)が膜原につまり、その表現形は心下痞梗であるといえる。 |
6)実際の症例との相合検討(表4)
上記の見解と実際の腹診症例から、心下痞、心下痞硬の原因は以下のように演繹できる。外邪、脾胃の気の昇降失調、心腎の昇降失調、肺肝の昇降失調、またそれらに肝の疎泄失調が影響しておこる場合、一臓からの失調による場合等である。まず(1)外邪によってできる場合だが、さらに病因により以下の症例がみられた。①風湿熱、湿温などの温病(症例136-1、自験症例1)、②風寒邪気の傷寒(221)、③結胸(p195)、④痰飲(支飲)(p208)などの伏邪。(2)脾胃の気の昇降失調の場合は、すでに上記で解説ずみであるが,まとめると、「①脾病が主の脾胃不和の時、昇降失調して心下痞を呈し、そこに邪(水湿、痰湿、湿熱、寒凝、瘀血または気滞)が集結して、心下痞梗になる。②胃病が主の脾胃不和の時は、さきに心下痞梗ができて後にそれが解消して心下痞が残り、虚痞になっていく。」となる。症例は130、134。
(3)心腎不交の場合、症例145では、心火亢進し不眠になり、上下が相済できずに心下で気が停滞して膨満感おこしている。傷寒論の熱痞に相当する。
(4)肺肝の升降失調の場合、症例245では、胸部の支飲が化熱して心下痞梗を起こしている。(5)肝の疎泄失調が影響しておこる場合、症例87では、胸脇苦満の肝郁から犯脾して升降失調し、陽明経の顔面にしびれが出現して心下は膨満している。(6)脾胃、心腎、肺肝の二臓の升降失調だけでなく、一臓からの失調からでも心下痞、心下痞梗が形成される場合がある。たとえば、症例180,193では、①脾の虚から、心下痞、心下痞硬が形成されている、一方症例373,151では、②胃の熱から心下痞、心下痞梗が形成されている。症例350では、③陽明病で大腸実熱が起こり、表裏をなす肺の粛降が阻害されて心下痞を起こしている。以上のように、多種多様な形成原因が見られたが、これは膜原、三焦の病機の多様性に由来すると考えられる。 |
表4
番号、頁数
病態 |
症状 |
腹診 |
治療薬 |
考察 |
136-1
外邪 |
数日前より一日数回下痢。 |
みぞおちがつかえて、夜よく夢をみる。 |
甘草瀉心湯 |
風湿熱邪気が腸に侵入、腸と表裏の肺気が心下でつまった。 |
221
外邪 |
昨朝より嘔吐と激しい頭痛、脈浮細 |
心下には膨満感がある |
呉茱萸湯、一服で治る |
外寒が侵入して心下痞。また肝陰上逆も関与する心下痞 |
p195
結胸 |
胸やわき腹が痛んで体が疲れる。 |
肋骨弓上腹部が膨満、硬い圧痛、心窩部に振水音 |
小陥胸湯加大黄芒硝 |
結胸 |
p208
痰飲の伏邪 |
風邪をひいて、息苦しさがつづいている。 |
腹筋は軟、心下部に振水音をわずかに認める。 |
小青竜湯1週間で治癒。 |
風邪をひいて平素の水飲がゆり動かされた |
130
脾主体の脾胃不和 |
平素から胃弱で食進まず不眠。食べると胃が張って苦しい。多夢、白苔 |
心下部にやや抵抗を感じ、心下痞鞕を軽く証明する。 |
半夏瀉心湯 |
痰飲による心下痞梗 |
134胃主体の脾胃不和 |
10日前より空腹時にむねやけと胃痛胃酸過多症 |
心下痞鞕があり、腹がごろごろなる。 |
生姜瀉心湯で3日で回復 |
水気と胃気逆の心下痞梗 |
145
心腎不交 |
高血圧で軽い脳出血後不眠 |
腹は少しはりぎみで心下部は膨満、抵抗圧痛ない。 |
三黄瀉心湯、+山梔子 |
心腎不交で気が停滞。そして心火亢進し不眠、
熱痞 |
245
胸部の支飲が化熱 |
7月前より喘息様の呼吸困難、最近は毎晩夜中に発作、痰でる。 |
肝臓肥大、季肋下五横指、そのため上腹部板のように硬い。 |
増損木防已湯 |
胸部の支飲が化熱して心下痞梗 |
87
肝気犯脾 |
26男,不眠が主訴、左顔面のしびれ、みぞおちの膨満感、疲労倦怠感。便秘結 |
みずおちが膨満して胸脇苦満が著明である。 |
大柴胡湯 |
胸脇苦満の肝郁から犯脾して升降失調。それゆえ陽明経の顔面にしびれが出現。 |
180脾病による心下痞 |
1月半前より慢性下痢、1年間より痩せはじめる。 |
心下痞。腹は全体的に膨満感、心下は特に痞える。 |
甘草瀉心湯で悪化。人参湯で改善 |
脾病の心下痞 |
193脾腎陽虚の心下痞梗 |
数年、夜間多尿と下痢>下痢は軟便で後は水様便。 |
心下部は硬い。 |
附子理中湯 |
脾腎陽虚 |
373胃熱で心下膨満、 |
胃痛と背中痛、3.4年前に胃酸過多症と診断 |
みずおちはやや膨満し,幽門付近に圧痛。脈やや頻数 |
甘連梔子湯、 |
心下膨満は心下痞の一部(痞満の満)。 |
151胃熱の心下痞梗 |
空腹時痛む上腹部痛。3月前に胃潰瘍診断 |
胃熱の心下痞梗で上腹部抵抗緊張圧痛、臍上4cmに圧痛点 |
黄連解毒湯加釣藤3黄耆3 |
胃熱 |
350大腸実熱が肺粛降阻害 |
前夜38度発熱、時々腹痛、軽い吐き気、食欲ない。 |
みぞおちが、やや張り気味、その他に膨満感ない、圧痛ない。 |
調胃承気湯 |
陽明病で大腸実熱が肺粛降阻害して心下痞 |
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7)傷寒論による心下痞硬の分類について(表5)
傷寒論には心下痞硬の分類として、以下の処方による分類がある。半夏瀉心湯、甘草瀉心湯、生姜瀉心湯、大黄黄連瀉心湯、附子瀉心湯、旋覆代赭湯等である。18)。これらの病機を表5でしらべてみると、上記でのべた病機の大筋を網羅しており感嘆せざるを得ないが、分類の仕方としてはわかりにくい。 |
表5
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傷寒論での分類 |
当論文での分類 |
半夏瀉心湯 |
痰飲による心下痞梗 |
脾主体の心下痞梗、症例130 |
甘草瀉心湯 |
邪気内陥して腹鳴雷鳴、客気上逆の心下痞梗 |
外感の心下痞梗、136-1
または脾主体の心下痞梗 |
生姜瀉心湯 |
水気、胃気逆の心下痞梗 |
胃主体の心下痞梗、134 |
大黄黄連瀉心湯 |
熱痞による心下痞梗 |
心腎升降失調による心下痞硬 145 |
附子瀉心湯 |
熱痞に陽虚の心下痞梗 |
腎陽虚による心腎升降失調の心下痞硬 |
旋覆代赭湯 |
胃虚、痰飲で肝気上逆の心下痞硬 |
肝気犯脾胃で脾胃不和の心下痞梗 |
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8)脾虚による心下痞梗の特異性。
心下痞梗は心下痞に実邪が積もって起こるものである。それゆえ時には圧痛をおこす。ところが脾虚の場合にも心下痞梗が起こることがあって、漢方医学では「陰証の心下痞梗」として人参湯を使う6)としている。この場合、圧痛はおこらない。大塚は脾虚の心下痞梗3症例(193、311、314:表6)を、四君子湯、香砂六君子湯、附子理中湯で改善させている。補脾気、補脾陽によって改善していることから、通常の心下痞梗の機序とは異なっている。気血不足による血不養筋の可能性が高い。これだと板状硬になっても痛みは発生しない。または陽虚からくる寒凝も可能性もある。
結語>心下には狭義(胃と心の間)と広義(心下〈狭義〉と胃脘部を含めた場所)がある。心下痞(痞満)には自覚的痞え感、膨満感以外に、腹診で他覚的に認められる痞え膨満感がある。心下痞は気の升降失調でおこり、それに実邪が積もって心下痞梗になる。その詳細は、外邪で起こる場合、心腎、肺肝の升降失調、肝気犯脾胃などで起こる場合、一臓からの失調から起こる場合など種々あるが、これは膜原、三焦の病機の多様性に由来する。ただ中心となる基本病理は脾胃の升降失調寒熱夾雑(脾胃不和)である。胃主体の脾胃不和では先に実邪(気滞、血瘀、熱蘊、湿阻、痰凝)が停滞し、升降失調を起こす。時がたつと心下痞に変化する。脾主体の脾胃不和では升降失調から心下痞ができ、やがて実邪が停滞して心下痞梗になる。脾虚で起こる心下痞硬は通常の心下痞梗の機序とは異なり、気血不足による血不養筋または陽虚寒凝が主であろう。 |
表6
番号頁数 |
主訴 |
腹診所見 |
その他の所見 |
治療 |
考察 |
193 |
萎縮腎兼腸炎の診断。夜間多尿)5~10回)と下痢、それで不眠。下痢は軟便で後は水様便。 |
心下部は硬い。 |
腹痛なし、里急後重なし。食欲あり、浮腫なし、口渇なし、脈芤,白苔 |
附子理中湯 |
脾腎陽虚 |
311 |
萎縮性胃炎の診断。3年で12kg減る。無理して食べるとみぞおちが苦しく、(自覚)、悪心。酸味がほしい。 |
腹部は硬く陥没している。 |
ときに不眠、夜間体が痒い、動悸、便1/日、夜尿4.5回、顔に浮腫、肩こり月経は正常、脈は遅弱、舌荒れて厚い |
四君子湯 |
脾気虚 |
314 |
胃腸弱く、よく下痢、最近便秘、食欲あるがたべると苦しいのでおかゆ少し。 |
腹部は陥没し臍周りが硬く盛り上がり、ここで動悸触れる。 |
7日便でないで浣腸してウサギの糞様すこし、脈沈小弱、苔白干燥 |
香砂六君子湯 |
肝気犯脾、
脾気虚 |
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参考文献
1)川又正之:胃脘痛の弁証要点についての検証、中医臨床132号、p60~65、2013年
2)大塚敬節:漢方診療三十年、創元社、大阪市、1993年
3)山田光胤:漢方処方応用の実際、南山堂、東京都、1984年
4)劉渡舟:中国傷寒論解説、p87、東洋学術出版社、千葉県市川市、1993年
5)姚乃礼:中医症状鑑別診断学、p296、人民衛生出版社、北京市、2005年
6)小川新:臨床古今腹症新覧Ⅱ、p22、たにぐち書店、東京豊島区、2010年
7)杵渕彰:新版漢方医学、p48、財団法人日本漢方研究所、東京、1990年
9)柯雪帆:中医弁証学、p264~p266、東洋学朮出版社、千葉県、1996
8)張景岳:景学全書、p270~p271、山西科学技術出版社、山西省、2006
10)王永炎:董建華医学文集、p39~p43、北京科学技術出版社、北京市、2000年
11)小川新:臨床古今腹症新覧Ⅱ、p85、たにぐち書店、東京豊島区、2010年
12)孟澍紅:高等医薬院校教材温病学、p205、上海科学技術出版社、上海、2004年
13)孟澍紅:高等医薬院校教材温病学、p79、上海科学技術出版社、上海、2004年
14)印会河:高等中医薬院校教学参考从书中医基礎理論第2版、p122、人民衛生出版社、北京市、2006年
15)兪根初:三訂通俗傷寒論:p61~p62、中医古籍出版社、北京市、2002年
16)劉渡舟:中国傷寒論解説、p73、東洋学術出版社、千葉県市川市、1993年
17)日本漢方協会学術部:傷寒雑病論、p42、東洋学術出版社、千葉県、1993年
18)日本漢方協会学術部:傷寒雑病論、p66~p70、東洋学術出版社、千葉県、1993年 |
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